古き良き歌つれづれ

古き良き歌を紹介し、その歌にまつわる徒然(つれづれ)の散文を綴っています。

さすらい(昭和の銀幕に流れた孤独の歌、その深い源流を探る)

 さすらい(リンク)

 【さすらい】という言葉ほど、時代を越えて人の心を揺さぶる響きを持つ言葉は、そう多くはありません。それは単に「寂しい、悲しい」というより、もっと言葉にしにくい感情で、不思議な力を持っています。

 

 昭和中期、大ヒットした小林旭の『さすらい』もまた、その一語が内包する孤独と旅情を、見事に歌い切った一曲でした。しかしこの歌には、単なる流行歌にとどまらない、深く重い源流があります。
 本稿では、この歌の来歴を辿ると共に、この歌詞に影響を与えたと思われる短歌についても追ってみます。

 

●誕生から65年以上経った今も人気のある歌

 歌のタイトルに「さすらい」という言葉を含む歌は非常に多く、かなりヒットした歌だけでも十曲以上は有りそうです。それだけ人の心に強い余韻を残す言葉だと言えますが、表題曲の『さすらい』は昭和35 年(1960年)に小林旭が歌って大ヒットし有名になりました。

 

 小林旭主演による日活・無国籍活劇 “流れ者シリーズ” の第3作目『南海の狼火(のろし)』の主題歌として作られています。一時期、小林は「この歌を、あまり歌わないようにしよう」と誓ったことがあるそうです。

 

 この歌が持つあまりにも濃い陰影が、聴く人の心を沈ませてしまうのではないか――そんな配慮からでした。それほどまでに、この歌は当時の “明るい娯楽曲”とは異なる重みを抱えていました。

 

 しかし、結果的にこの歌は、小林の代表曲の一つになるほどヒットしています。現代のカラオケランキングや人気投票でも常に上位にランクインしており、65年以上経った今でも根強く聴き継がれていますが、実は、この歌には元歌があります。

 

 

●元歌は戦時中ルソン島の収容所で生まれた

 この歌は戦時中、南方戦線の島に駐屯・転戦し、戦後フィリピン・ルソン島で収容されていた、旧陸軍 “京都第十六師団” 将兵たち (*1) によって作られた歌です。

 

 同師団に属していた別の将兵が、戦後に復員し香川県の丸亀第一高校で英語教師となり、ルソンの収容所で耳していた『ギハロの浜辺』を生徒たちに歌ってきかせたことが、日本国内でも知られる契機になりました。

 

 それが時を経て旋律と心情が受け継がれ、現在の『さすらい』の歌へと姿を変えたとされています(*2)。(<補注>ギハロ(Guijalo)は、ルソン島南東部の地名です)

 

 原曲の背景には、太平洋戦争中の南方戦線(パプアニューギニア周辺を含む)での、過酷な戦場体験があるとされています。
 この曲の旋律と言葉には、ほぼ全滅した師団の中で、辛うじて生き残られた方の悲哀、死者に対する思いが、まざまざと感じられます。
(<補注>第十六師団は、13,000名で臨んだ米軍とのレイテ島の決戦で、生還者は僅か620名でした)

 

 深い陰影のある原曲の背景もあってか、この歌を聴いていると、いいしれぬ寂しさや、孤独感というものが感じられます。こうした「さすらい」の感情について、リンク先映像サイトの管理人・二木鉱三さんは、映像の最後で次のように言葉を添えられています。

 

【 「存在の不安」というようなものに衝き動かされて、流浪の旅に出る人がいる。その不安は、真実の自分と現実との間の埋められない空隙(くうげき)から生じることが多い。埋められないもどかしさは、時に孤独感という姿で現れる。】

 

『さすらい』の曲は、まさにこの「存在の不安」を音楽として結晶させた歌なのかもしれません。

 

 

●漂白の歌人若山牧水

 この歌詞で描かれたような旅で思い出されるのが、大正時代の歌人若山牧水です。若山牧水は、その生涯を通じて旅を愛し、多くの旅の歌を詠んだことから、「漂白(ひょうはく)の歌人」と称されました。 

 

 牧水における「漂白」とは、定住せずに各地を転々と旅すること、また、その中で感じる寂しさや哀愁といった心情を指しました。特定の場所に留まることなく、自然や酒をこよなく愛し、それらを題材とした歌を数多く残しましたが、牧水の「漂白」の精神を表す最も有名な歌の一つが、以下の代表作です。 

 

    幾山河(いくやまかわ)

    越えさり行かば寂しさの

    終(は)てなむ国ぞ

    今日も旅ゆく

 

 この歌は、「どれだけ多くの山や河を越えて旅を続ければ、この心の中にある寂しさが終わる国にたどり着けるのだろうか」、という旅への思いと内なる寂寥感を詠んだものです。牧水が22歳だった明治40年(1907年)の夏に作られました。

 

 当時、早稲田大学の学生だった牧水が、故郷である宮崎県へ帰省する旅の途中で詠んだ一首です。歌に詠まれた山々は、現在の岡山県新見市哲西町(てっせいちょう)にある、「二本松峠(にほんまつとうげ)周辺の風景とされています。

 

 慣れない山道を歩き続け、幾つもの山や河を越えてもなお終わりの見えない旅の寂しさを、この峠からの眺めに重ねたとされています。
 その一方で、この歌の読み手には、詠まれている対象が自然の山河を越える旅でありながら、その実体は、人生そのものを歩く心象風景にも重なるように感じとれます。

 

 この短歌に影響を受けたと思われる、表題曲『さすらい』の歌もまた、旅を装いながら、人が生きることそのものの孤独を歌っています。それゆえに、この歌は時代を越えて、聴く人の心の奥深くに沁みとおるのでしょう。

 

 『さすらい』の歌は、単なる流行歌ではなく、人生そのものを背負った歌として、これからも歌い継がれていくのかもしれません。

 

 

■「さすらい」の歌詞

    作詞:西沢 爽、補作曲:狛林正一、唄:小林 旭

 

    1 夜がまた来る 思い出つれて

      おれを泣かせに 足音もなく

      なにをいまさら つらくはないが

      旅の灯りが 遠く遠くうるむよ

 

    2 知らぬ他国を 流れながれて

      過ぎてゆくのさ 夜風のように

      恋に生きたら 楽しかろうが

      どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ

 

    3 あとをふりむきゃ こころ細いよ

      それでなくとも 遙かな旅路

      いつになったら この淋しさが

      消える日があろ 今日も今日も旅ゆく

 

 

<<参考音源>> 小林旭が歌う、『さすらい』(リンク)

 小林旭の歌唱は、単にメロディをなぞるのではなく、セリフを喋るように歌う部分と、朗々と歌い上げる部分のダイナミックな差が、聴く者を物語の世界に引き込みます。

 

 サビで聴かせる、天突き抜けるような高音が最大の特徴で、地声から裏声へスムーズに移行する技術(ファルセットの使い分け)が非常に高く、哀愁の中にも力強さを感じさせます。

 

 

<<補足説明>>

(*1)  丸亀第一高校で生徒に『ギハロの浜辺』の歌を紹介した先生の譜面には、作詞 第十六師団将兵、作曲 大西嘉武、と記されています。

(*2) 『ギハロの浜辺』が、『さすらい』に結び付いたのは、丸亀第一高校の先生から『ギハロの浜辺』の歌を聞いていた生徒の一人と、同じ学生寮で過ごしていた仲間に、後にコロムビアの文芸部長となった方がいた事が、“きっかけ” になっています。

 

さすらいの唄(自由への憧れを、陰影深く歌い上げた一曲)

■さすらいの唄(リンク)

 ”さすらい”という言葉には、「既成の価値観に囚われず、自由に生きる」というイメージがあります。他にも ”さまよい” という、似たような言葉がありますが、微妙な違いが感じられます。

 

 辞書を引くと “さすらい”は、【何処というあてもなく、また定まった目的もなく歩きまわる】となっています。一方 “さまよい” の場合は、【迷ったりして、目的地を見いだすことができずに、あちこち歩く意を表わす】となります。

 

 つまり、“さまよい” は目的地があり、それが探し出せない状態であるのに対し、“さすらい“ は、初めから目的地そのものが無い状態ということです。

 

●誰もが抱く感情

 また、“さすらい” という言葉には、「運命に束縛されず、自らの意志で放浪を選ぶ」という自由人のニュアンスも感じられます。こうした事から、なんとなく “さすらい人” に憧れをいだいた時期があった人は、少なくないでしょう。

 

 これは日常のしがらみに、がんじがらめになって、自由な時間が無くなった時に、誰もが自然にいだく感情だと思います。人生のどこかで責任に縛られた事のある人なら、誰しも一度は、こうした思いに触れる瞬間があるのではないでしょうか。

 

 職業人に限らず、家事や家族の介護に明け暮れしているような人にも、そういう感情が湧き出る瞬間があるのは、ごく自然なことのように思えます。

 

 しかし資金の問題もありますし、渥美清が演じた寅さんのように、実際にそのまま “さすらう”人は、ほとんど居ないでしょう。仮に実行されたとしても、現実には辛いことの方が多いはずです。

 

 そんな「”さすらい”の感情」を詩的に美しく描いたのが、表題曲『さすらいの唄』です。作詞:北原白秋、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子、となっていることから分かるように、今から百年以上前に作られた非常に古い作品です。

 

 大正6年(1917)に島村抱月が主宰した芸術座公演の劇中歌の一つとして歌われていますが、この曲からは "荒涼とした寂寥感" が強く感じられます。

 

 歌詞に『ロシアは北国 はてしらず』という言葉が見られるように、この曲は “広大なロシアの、凍てついた荒野” が舞台です。この短い歌詞の中に、オーロラの下 “極寒の荒野”を、酒場の灯ある街を目指し幌馬車を走らせている荒涼とした光景と、その御者(ぎょしゃ)の孤独な胸中が見事に描き出されています。

 

 しかし今の人達からすると、外国の歌の翻訳ではない純粋の日本の歌でありながら、何故この歌の背景がロシアの荒野になっているのか、不思議に思われるのではないでしょうか。

 

 その直接的な理由は、芸術座で演じられた演劇の原作である、トルストイの名作『生ける屍』の舞台がロシアだったためですが、それに加えて、当時の時代背景も無視できなかったように思われます。

 

大正6年当時の時代背景

 この歌が作られた、大正6年(1917)当時の日本は、日露戦争(1904-05)から10年余しか経っておらず、ロシアは「恐ろしく広大で、敵でもあった大国」、という印象が強く残っていました。欧州では第一次世界大戦のさなかで、日本は「大戦景気」で表面上は活気がありましたが、その一方、物価高騰・貧富の差の拡大といった、社会のひずみが大きくなっていました。

 

 『生ける屍』の物語はロシア帝国末期を舞台とし、主人公は自らの運命から逃れ、ロシアの荒野を放浪する男として描かれています。「さすらい」という言葉は、こうした社会の不安や閉塞感から「抜け出す “語”」として当時の人々の心を捉えました。

 

 こうした時代背景から、表題の『さすらいの唄』も「運命に束縛されず、自らの意志で放浪を選ぶ主人公の心情」を象徴する歌として作られたのだと考えられます。

 

 この歌詞を読んでいると、若い頃に読んだ一冊の小説が思い出されます。私はこの歌詞から、プーシキンの名作『大尉の娘』の冒頭部分を連想しました。
 帝政ロシア時代を舞台に、主人公の若き貴族士官が、赴任先である辺境の要塞目指して、猛吹雪の中を幌馬車で駆けて行く場面が描かれていたような記憶があります。

 

 『大尉の娘』は、“エカテリーナ2世” 治世下のロシアで実際に起こった「プガチョフの乱」を背景にした歴史ロマン小説で、主人公の若者と要塞司令官の娘マリアとの純愛や、彼らを取り巻く激動の時代が描かれていました。
 歴史の激動の中でも失われない人間性を描き出していて、私にとっては忘れられない小説の一つです。

 

 「プガチョフの乱」は1770年代の出来事です。
『さすらいの唄』の歌詞が描く世界は、1900年頃の帝政ロシア末期を舞台にしていますので、時代は全く異なりますが、「ロシア・荒野・幌馬車・・」といった言葉が記憶の中で共鳴し、その情景が自分の頭の中ではオーバーラップしてしまいます。

 

●体験に結び付く熱唱

 ところで、この曲を歌っている「東京リーダーターフェル1925」の合唱は本当に見事ですが、この正統的な歌唱とは対照的な歌いぶりで、名優「森繁久彌」もこの曲を歌っています。 

 今では森繁節を知る人も少なくなっていると思いますが、この曲の歌唱では独特の森繁節が際立ち、実に感動的です。

 

 森繁久彌は俳優になる前、NHKアナウンサーとして旧満州に赴任し、川一本を隔てたソ連軍に対する、特殊放送業務(謀略放送)に携わった経験もあったそうですから、この歌詞で描かれているような荒涼とした情景が、体感的に分かっていたのでしょう。

 

 技巧的ではない、その独特の節回しからは、荒涼とした風景を実感として知る者の重みが伝わってきます。

 

■森繁久彌が歌う「さすらいの唄」(リンク

 

 この『さすらいの唄』は、時代を超えて、人が心のどこかで抱き続ける「自由への憧れ」を、静かに、陰影深く歌い上げた一曲です。

 ”さすらう” ことは、誰にとっても「憧れ」であり、同時に「恐れ」でもあります。だからこそ、この歌は百年以上の時を経てもなお、聴く人の心に奥深く響くのでしょう。

 

 

<<参考音源>> (補注)リンク先、一番下の動画です。

 ネット上には、本家の松井須磨子が歌っている『さすらいの唄』も上がっていました。大正6年の劇中歌そのままで、劇のセリフも一緒に録音されています。これを聴くと須磨子版の「さすらいの唄」は、かなり早いテンポで歌われていたことが分かりました。
  それにしても、百年以上前の大女優本人の、生前の歌声を、今こうして聞けること自体が驚きであり、感銘を受けました。

■松井須磨子が歌う「さすらいの唄」(リンク)

 

 

Kとブルンネンの「何故に二人はここに」と「あの場所から」(昭和歌謡から、明治期に渡米した「武士の娘」の軌跡をたどる)

「何故に二人はここに」と「あの場所から」(リンク)

   (注)「あの場所から」は、リンク先ページの下の方にあります。

 

 昭和40年代の歌謡曲には、今では少し不思議な魅力を放つ男女デュオが数多く登場しました。その中でも「Kとブルンネン」や「ヒデとロザンナ」といったグループは、テレビの向こうに広がる “当時の日本が見ていた外国”を、軽やかに、少し憧れが混ざったかたちで伝えてくれました。

 

 本稿では昭和歌謡の二つのデュエット曲を手がかりに、そこから見えてくる日本人の異文化観、そして明治期にアメリカで活躍した「武士の娘」杉本鉞子へと視野を広げ「異文化との距離感」という、時代を超えたテーマを追ってみます。

 

1.未だ遠かった世界への、静かな憧れ

 昭和40年代は、カラー放送が普及し家庭のテレビが国際色を帯びはじめた頃で、その中に登場したのが、男女の国際デュエット「Kとブルンネン」でした。

 

 珍しいネーミングですが、“K(ケイ)” は鈴木豊明という日本人男性で、”ブルンネン”はアメリカ・コネチカット州出身の女性でした。本名がクリスタリン・ブルンネンで、デビュー当時は東京のアメリカンスクール在学中だったようです。

 

 男性の方の ”K”というネーミングの由来については明確に語られていませんが、義理の兄が有名なフォークグループ “六文銭”のリーダー小室等ですので、影響力のあったKOMUROとの繋がりを示す意図で、頭文字のKを使ったのかもしれません。

 

 このデュエットの実際の活動期間(1969年~1970年)は2年弱と短く、ヒデとロザンナに比べて知名度もそれほど高くはありませんでしたが、この2曲の他にも『恋人たちの舗道』など印象的な作品が残っています。

 

 特に『あの場所から』は、作詞が山上路夫、作曲が筒美京平という、当時の歌謡界を代表するゴールデンコンビによって生み出されていて、楽曲自体の持つポテンシャルも高かったので、その後、朝倉理恵・柏原よしえ・南沙織によってカバーされています。

 

 今改めてこの2曲を聴くと、素直で美しいハーモニーが心に響きますが、特に、ブルンネンの透き通った儚げ(はかなげ)な声が印象的です。良い曲に恵まれ、それなりにヒットしていたにも関わらず、その芸能活動は長くは続かず、二人のその後の消息について確かなことは分かっていません。

 

 だからこそ、このデュエットの曲は、昭和歌謡の中でふっと現れては消える、 "一枚のスナップショットのような存在感" 、を放っているのかもしれません。

 

 「Kとブルンネン」は、メジャーな歌手とは言えませんでしたが、その歌声はなんとなく切なく、それでいて爽やかで、不思議な魅力を持っていました。
 表題の2曲は、一見、刹那的でありながら、どちらも ”青春の香り” を色濃く感じさせる佳曲だったように思います。

 

 

2.統計から見る社会の変化

 ブルンネンは日本人の母とアメリカ人の父を持つ、今で言う“ハーフ”の女性でしたが、当時、国際結婚の比率は現在よりずっと低く、海外文化そのものが “遠いもの” として意識されていました。

 外国語を話す人、海外の香りを持つ人は、それだけで特別視され、テレビに出れば強い印象を与えました。

 

 現在の日本では “ハーフ”、即ち国際結婚の子供の割合が高くなっています。正確な公式統計は存在しませんが、今、 “日本で生まれる子供” のおよそ30人に1人(約3.0%~3.5%)がハーフとも言われ、出生数の統計から見ると、現在、20歳以下のハーフの人は、数十万人規模になると推計されています。

 

 今では、スポーツ界でもメディアでも多様なルーツを持つ人々が活躍し、「外国への憧れ」といった感覚は大きく変化しています。確かに、今年(2025年)の夏に東京で開催された世界陸上競技大会でも、日本代表メンバー、それも主力選手の多くがハーフの方だったことからも、その辺が実感されます。

 

 このデュエットの歌で感じた “遠い国の気配” は、いま思えば、国際化前夜の日本が抱いていた素朴な期待と好奇心の象徴でもあったのかもしれません。
 こうした視点で当時のデュエットを振り返ると、彼女らが単なる歌手以上の役割を果たしていたことに気づきます。日本が「まだ知らない世界」を、歌とともに運んできた存在だったということです。

 

 今は「生まれも育ちも日本」、というハーフや外国人の方が多いので、日本の文化に同化していて、生活する中で違和感を覚えることも少なくなっていると思いますが、一昔前では、大きな葛藤があったはずです。

 

 

3.明治期に異文化と向き合った先駆者「杉本鉞子

 ブルンネンとは逆の立場になりますが、時代をさかのぼると、明治期の日本には、すでに異文化と向き合った、女性の先駆者が存在しました。
 明治時代中期に、日本からアメリカへ渡って長く暮らした杉本鉞子(すぎもとえつこ)です。

 

 この人は1873年明治6年)、越後長岡藩の家老の家に生れていますが、戊辰戦争の名残もまだ消えやらぬ頃で、武士の伝統の色濃い家庭の中にあって、「武士の娘」として厳格に育てられています。

 

 その人生における経験については、著書『武士の娘』で本人が詳しく書き残しています。(下記リンク先には、杉本鉞子やその著書の内容について、少し詳しく書きましたので、興味のある方は御一読下さい。)

【アメリカへ渡った「武士の娘」杉本鉞子(リンク)】

 

 杉本鉞子を「異文化に向き合った日本女性の先駆け」として捉えると、昭和のテレビに現れたブルンネンの姿とも、どこか地続きに感じられます。
 「Kとブルンネン」の姿は、日本が国際化へ向かって歩み始めた時代の、小さな予兆だったのかもしれません。

 

 

4.異文化との距離の変化

 異文化に触れたとき、人は不安と期待の間で揺れながらも、新しい価値を見つけていきます。その普遍的な姿が、時代も立場も異なる二人の女性の背後に浮かび上がります。

 

 昭和の歌謡界で、ほんの少し異国の香りを持ち込んだブルンネン。逆に、祖国日本の文化を胸に異国へ飛び込んだ明治の杉本鉞子。その姿には、国境を越えて生きる人に共通する「たくましさ」と「しなやかさ」が宿っています。

 

 国際化が加速する以前、日本にとって「外国」は、少し背伸びをして覗き込むような存在でした。かつて遠かった、その外国との距離は、令和の今ではすっかり近いものになりました。

 

 それでも、"一人ひとり" にとっては、初めて触れる異文化の眩しさや、そこに宿る期待と戸惑いは、いつの時代も変わらないのかもしれません。
 歌が映し出した「異文化との出会い」と、明治の女性が歩んだ「新しい世界」。両者を並べて眺めることで、時代を超えた日本人の感性が静かに浮かび上がってくるように思います。